もしあなたが、あなたの名前などどこにも書いていないある本を指して、「この本の言っていることはすべて私のことだ」と言ったとしたら人々はどんな反応をしたでしょうか。
しかしイエスはそんな状況にいたのです。
 
イエスが十字架にかかって墓に入れられてから3日目、「二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。(ルカ24:13-14)とあります。
  
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
...
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
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イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(ルカによる福音書 / 24章 30-31, 33-38, 44-48)
 
私たちは現在、イエスのことをその誕生から700年も前に預言する旧約聖書からも、イエスの生きた時代の新約聖書からも知ることができます。そして、私たち自身が心を開いて、見て気づくことで私たちはいまもイエスと出会い、証人となることができるのです。


Et voici, ce même jour, deux disciples allaient à un village nommé Emmaüs, éloigné de Jérusalem de soixante stades; et ils s'entretenaient de tout ce qui s'était passé.
... 
Alors leurs yeux s'ouvrirent, et ils le reconnurent; mais il disparut de devant eux. Et ils se dirent l'un à l'autre: Notre coeur ne brûlait-il pas au dedans de nous, lorsqu'il nous parlait en chemin et nous expliquait les Écritures? Se levant à l'heure même, ils retournèrent à Jérusalem, et ils trouvèrent les onze, et ceux qui étaient avec eux, assembles et disant: Le Seigneur est réellement ressuscité, et il est apparu à Simon. Et ils racontèrent ce qui leur était arrivé en chemin, et comment ils l'avaient reconnu au moment où il rompit le pain. Tandis qu'ils parlaient de la sorte, lui-même se présenta au milieu d'eux, et leur dit: La paix soit avec vous! Saisis de frayeur et d'épouvante, ils croyaient voir un esprit. Mais il leur dit: Pourquoi êtes-vous troublés, et pourquoi pareilles pensées s'élèvent-elles dans vos coeurs?
...
Puis il leur dit: C'est là ce que je vous disais lorsque j'étais encore avec vous, qu'il fallait que s'accomplît tout ce qui est écrit de moi dans la loi de Moïse, dans les prophètes, et dans les psaumes. Alors il leur ouvrit l'esprit, afin qu'ils comprissent les Écritures. Et il leur dit: Ainsi il est écrit que le Christ souffrirait, et qu'il ressusciterait des morts le troisième jour, et que la repentance et le pardon des péchés seraient prêchés en son nom à toutes les nations, à commencer par Jérusalem. Vous êtes témoins de ces choses. (Luc 24:13-14, 31-38, 44-48)
  
2012.05.01 Tue l Pastor Talks l COM(0) TB(0) l top ▲
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイによる福音書 / 27章 46節)

わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。(詩編 / 22編 2節)

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネによる福音書 / 14章 18節)

Et vers la neuvième heure, Jésus s'écria d'une voix forte: Éli, Éli, lama sabachthani? c'est-à-dire: Mon Dieu, mon Dieu, pourquoi m'as-tu abandonné? (Matthieu 27:46)

Mon Dieu! mon Dieu! pourquoi m'as-tu abandonné, Et t'éloignes-tu sans me secourir, sans écouter mes plaintes?(Psaumes 22:2)

Je ne vous laisserai pas orphelins, je viendrai à vous. (Jean 14:18)


病院や施設に赤ん坊が置き去られていた、という話を聞いたことがあるでしょうか。様々な理由で母親はその赤ちゃんを育てることができなくなったのでしょう。子供をもっとも愛すべき親が子を見捨てる、という事実には胸が痛みます。
では、天の父である主が御子を見捨てる、ということについてはどうでしょうか?
そんなことはあり得ない、神は子を愛する神のはずだ、と思うのではないでしょうか。
しかし、神が御子に背を向けなければならなかった最もつらい時間がありました。イエスさえも十字架の上で「父よ、なぜ私を見捨てるのですか」と神に叫んだのです。
そのとき、すべての人間の罪、醜さ、羞恥、怒り、嘘、悪事といったものがイエスにあずけられたのです。神はそれらの罪を受け入れることはできなかったのです。イエスはさらに「父よ、私のたましいをあなたの御手にゆだねます」(Luke 23-46)とさけびました。

イエスは、私たち人間の罪のために主から見捨てられなければなりませんでした。
が、永遠に見捨てられたわけではありません。イエスの死によってその罪が購われたことにより、ふたたび神のもとに迎え入れられました。
そしてイエスが見捨てられたことにより、私たちが二度と見捨てられないようになったのです。私たちもまた、神のもとに迎え入れられるようになったのです。
2012.03.22 Thu l Pastor Talks l COM(0) TB(0) l top ▲
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。(ローマの信徒への手紙 / 5章 12節)
C'est pourquoi, comme par un seul homme le péché est entré dans le monde, et par le péché la mort, et qu'ainsi la mort s'est étendue sur tous les hommes, parce que tous ont péché,...  (Romains 5:12)

学校で、一人の生徒のしたことにクラス全員が罰せられたりしたとき、「私は何もしていないのに、なぜ責任とらなくちゃいけないの、不公平だ!」と思ったことはありませんか。
最初の人間であるアダムが犯した「罪」は、わたしたち子孫まで脈々とつながる人間のいわば「性質」です。
もしアダムの罪がわたしたちの罪になるのが不公平だとするなら、ひとりのキリストの正義がわたしたちすべての人間の義となることは、やはり不公平だとおもうでしょうか。実際には、それが神のされる正義なのです。
そして、アダムの「不従順」によって人間が生まれながらにして引き継いでしまった性質は、キリストの「従順」によって神が差しのべた救いの前では比較にならないものです。人がただ信じて受け取ることができるその救いのほうが、はるかに偉大ですばらしいのです。
神の『神秘』な方法によって、私たち人間は皆アダムにつながっていると同時にイエスにも深くつながっているのです。イエスが私たちの中で生きることでイエスは神への「従順」を成就するのです。

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。(ローマの信徒への手紙 / 5章 18-19節) 
Ainsi donc, comme par une seule offense la condamnation a atteint tous les hommes, de même par un seul acte de justice la justification qui donne la vie s'étend à tous les hommes.
Car, comme par la désobéissance d'un seul homme beaucoup ont été rendus pécheurs, de même par l'obéissance d'un seul beaucoup seront rendus justes. (Romains 5:18-19)
2012.02.29 Wed l Pastor Talks l COM(0) TB(0) l top ▲
「初めにことばがあった」とヨハネの福音書は始まっています。
聖書の最初の章『創世記』で神が「光りよ、あれ」と言葉にしこの世を創造していったことをみてもわかるように、神の考えは言葉に発せられてこの世にあらわれました。この世に現れたことば、すなわち神自身が姿をともなって現れたのがイエス・キリストです。
神がつかわしたことばであるイエスはいまも人の光です。私たちが闇のなかにあっても、神の与える命によって生きるチャンスを与えてくれる方なのです。人が自分でも他人でもなく神によって生きることができる、そのすばらしい贈り物を私たちは受け取ってみることができるのです。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 (ヨハネによる福音書 1:1-5)

しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。 (ヨハネによる福音書 1:12, 13)

Jean 1:1-5
Au commencement était la Parole, et la Parole était avec Dieu, et la Parole était Dieu. Elle était au commencement avec Dieu. Toutes choses ont été faites par elle, et rien de ce qui a été fait n'a été fait sans elle. En elle était la vie, et la vie était la lumière des hommes. La lumière luit dans les ténèbres, et les ténèbres ne l'ont point reçue.

12-13Mais à tous ceux qui l'ont reçue, à ceux qui croient en son nom, elle a donné le pouvoir de devenir enfants de Dieu, lesquels sont nés, non du sang, ni de la volonté de la chair, ni de la volonté de l'homme, mais de Dieu.
2012.01.29 Sun l Pastor Talks l COM(0) TB(0) l top ▲
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書 / 3章 16節)
Car Dieu a tant aimé le monde qu'il a donné son Fils unique, afin que quiconque croit en lui ne périsse point, mais qu'il ait la vie éternelle. (Jean 3:16)


Forever21というお店のショッピングバッグにも、"John3:16" というこの聖書の一節が記されているそうです。
それほどにこの一節には、私たちすべての人の救いと希望について簡潔にかつ凝縮して述べられていると言えるでしょう。
独り子とは神の子イエスキリストのこと。そして、神がイエスをこの世に与えた、という出来事がまさにクリスマスです。
神は人間ひとりひとりが「愛されている」存在であるということに気づくよう、そして気づくことによって、決して消えない希望=永遠の命が宿るためにイエスという存在を世に送りました。
私たちは、神と自分との関係をいつでも立て直していくことで、自由と解放と真の喜びが得られるのです。

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネによる福音書 / 3章 17節)
Dieu, en effet, n'a pas envoyé son Fils dans le monde pour qu'il juge le monde, mais pour que le monde soit sauvé par lui. (Jean 3:17)
2011.12.14 Wed l Pastor Talks l COM(0) TB(0) l top ▲